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増田 任雄 大徳院住職
マスダ ニンユウ
NINYU MASUDA |
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大徳院 両国陵苑 |
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出身地:東京都 |
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趣味・特技:読書 |
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好きな本・愛読書:宗教書 |
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好きな映画:曼荼羅/若き日の弘法大師・空海 |
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好きな言葉・座右の銘:初中後善 |
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好きな場所・観光地:アンコール・ワット、ボロブドゥール遺跡 |
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■大徳院をご紹介ください。 |
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大徳院は徳川家康の命により、文禄3年(1594年)に和歌山県高野山に開かれました。寺名の由来は、高野山を開いた弘法大師の「大」と、徳川家康の「徳」をとり、「大徳院」と号したのにはじまります。大徳院はその後、高野山金剛峰寺の諸国末寺の総触頭として神田紺屋町に屋敷を拝領し、貞享元年(1684年)に現在の地、両国へと移転してきました。
高野山真言宗のお寺である大徳院は、同時に、江戸時代に開かれた御符内十八ケ所霊場の第五十番札所でもあり、宗派を問わず、多くの方が参拝に見えています(JR総武線・両国駅より徒歩5分、都営地下鉄大江戸線・両国駅より徒歩8分、都営地下鉄新宿線・森下駅より徒歩9分)。 |
■『大徳院両国陵苑』の成り立ちについてお話しください。 |
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かつて日本や中国の貴族は、亡き人や自らのために、霊廟(お墓)をさかんに造りました。やがて庶民もお墓を持つようになりましたが、霊廟の古い歴史からすれば、それままだ新しいことになります。この霊廟の古い歴史と、供養の精神性を重んじ、さらにはお墓にまつわる心労と不安を一掃したのが、本院境内地の『大徳院両国陵苑』です。
都会には人が集まってきます。そして人が集まれば、人の誕生が起こり、同時に、死も生まれます。その死をどう扱い、どう弔っていくのかによって、都市の完成度が問われると申してもよろしいかと思います。当院の納骨堂は、その1つの答えだと私は思っているのです。
都会の事情は、洋の東西を問いません。つい最近、東南アジアの方がこちらの納骨堂を見学にいらっしゃいました。聞いたところでは、あちらも中心部はどんどんと人が増え、お墓を建てる余裕がなくなってきているそうで、非常に参考になるということでした。
話がいささか、それてしまいましたね(笑)。『大徳院両国陵苑』は、人の知恵と、宗教とが合わさってできた、新しい弔いの形と言えるでしょう。当院では、日頃のねんごろなご供養をはじめ、お墓の継承者がいなくなった場合も責任を持って永代に渡り、供養してまいります。 |
■霊園の特徴をご説明いただけますか? |
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当院のいわばルーツである高野山奥の院は、天下の総菩提所と言われています。「弘法大師様のお膝元にあれば、誰しもが成仏できる」。これを高野山信仰と称しますが、彼の地には数十万基を越える供養碑(墓・供養塔)が祀られています。私どもはその高野山の流れを汲むお寺として、宗派にこだわりなく、寺院内でご葬儀や法事を執りおこなっています。
当院は両国駅から直線距離にして500メートルあるかないか、という場所にあります。また、納骨堂は屋内になりますから、夏は適度な涼しさを、冬になれば適度な暖かさを維持しています。これらを持って、皆様に快適に、そしていつでも気軽にお参りをしていただければと思っているのです。 |
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■「読経と法話の会」についてお話しください。 |
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少し堅いお話になりますが、どうぞお付き合いください。仏教には、「生老病死」という考え方があります。人は誰しもが「死」に向かうものであり、その過程において、「病」と「老い」に向き合っていくことを余儀なくされます。これを「四苦」と表現しますが、その「四苦」とどう向き合っていくかによって、その人の生き方が楽なものになるか、苦しいものになるかが分かれてくるのです。
「終活」という言葉が、昨今、取沙汰されるようになってきました。「終活」そのものは、それはそれで良いことでしょう。しかし、ともすれば今の「終活」は、自分の死後のことに目を向けがちなように感じられます。そうではなく、生きている人のためにあるのが、本来の仏教なのです。
当院では、毎月21日に「読経と法話の会」を催しています。人の死というものを宗教的な観点で見つめることは、ご自身のこれからを考えていくことにつながります。その仲介をするのが、我々坊主の役割でもありますし、ご興味のある方はどうぞお気軽にご参加ください。 |
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■最後に地域の皆様へメッセージをお願いします。 |
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横着という意味ではなく、人として生を受けたのであれば、できる限り楽に生きられたほうがよろしいかと思います。そのためには、自分自身を見つめることが時に必要になります。つらいことを申すようですが、人は、自分以外の人の死・他人の死から自分を見つめるものなのです。言わば、死者との対話の中から、人は自分に合った生き方を見つけることができるようになる。これを生死一如(しょうじいちにょ)と云います。そのお手伝いをさせていただければ幸いですし、もう1つ言わせていただくならば、お寺をもっと身近なものとしてご利用いただければと思います。
※上記記事は2016.1に取材したものです。
情報時間の経過による変化などがございます事をご了承ください。 |
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